宗祖日蓮大聖人鎌倉弘教(布教)時代、大町・小町の辻に立って『法華経』(妙法蓮華経)の説法をされておりました。当時、鎌倉は比企ヶ谷に住みし漢学者、比企大学三郎能本公は幕府の仕官で、いつとはなしに日蓮大聖人の帰依者となっておりました。日蓮大聖人が『立正安国論』を執筆、幕府に諫言しようとし、その校訂を比企能本公に委嘱されました。比企能本公は『立正安国論』を読まれ、日蓮大聖人の才、傑出に大いに驚き、益々尊信の念を深くし、日蓮大聖人に御給仕申し上げ、入信し弟子の礼を取られました。
文永11(西暦1274)年、日蓮大聖人は比企能本公の両親の戒名である「長興」・「妙本」を取って比企能本公の屋敷を日蓮宗最初の寺院とし、長興山妙本寺と命名されました。又、比企能本公は本行院日学上人の法号を授けられ、日蓮大聖人身延山九ヶ年間在山中、度々安否を尋ねられ、止宿の庵を造立されたのが、現在の本地院本行坊の旧蹟であります。
弘安5(西暦1282)年の秋、日蓮大聖人、病になられ、御心配された日学上人は、此の機に身延の山を出られ東下されて名医にお診せ下さいと勧められ、御供をして武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主、池上宗仲公の館(現在の日蓮宗大本山、池上本門寺)へと着かれました。時に日蓮大聖人、御寿六十一歳でした。日学上人の給仕奉公の法勲は千歳に巧らず、爾来、身延山参詣の御信者に信心増進、報恩感謝の念修養の場として参籠の御世話をする由縁です
本堂隣には大帝釈天王を勧請する帝釈堂があります。この御堂に祀られている大帝釈天王御尊像は、日蓮大聖人御自らが開眼し、比企大学三郎能本公こと本行院日学上人に与えたものと伝えられております。
この大帝釈天王御尊像は、嘗て身延山山頂の奥之院思親閣に祀られておりましたが、後に比企能本公開創の当院に遷座せられ現在に至っております。御開帳(大帝釈天王御尊像の御前にての御経)は随時行っておりますので、ご希望の方は当院にお申し付け下さい。
大帝釈天王は元来、古代インドの神で、梵語(サンスクリット語)で「シャクラー・デーバーナーム・インドラ」(Śakrā‐Dēvānām Indra)、略して「インドラ」と言い、阿修羅(アスラ)と戦って勝利し、仏法に帰依させた軍神として、又、雨水を地上に齎し、大地を潤す豊穣の神として、古代インドのヴェーダ聖典等に登場します。「インドラ」とは、天主もしくは帝と言う意味で、これに漢訳表記である「釈迦提婆因陀羅」・「釈迦提婆」等の頭文字である「釈」を組み合わせて、日本では、帝釈天王・帝釈天・天帝・天帝釈等と呼ばれております。
凡そ三百年前、京の都は伏見宮第九代邦房親王の第八王子が落飾(出家)し、身延山第二十六世法主・智見院日暹上人の弟子となられた、八之宮尊賀院日廷上人は当地に常住坊を創立、琥珀明珠大菩薩を勧請し、国家の安全、身延山の安泰、法主猊下(日蓮宗総本山、身延山久遠寺の住職)の御健勝を祈念し、且つ伏見宮家の御祈願所とされました。
当時、近村には疫病が蔓延し、罹病した人の苦しみを救う為、日廷上人は日蓮大聖人直伝の加持祈祷と医術によって病者を助け、護符を作り与えた結果、霊験灼かに、病者は平癒し、多くの人達が救護されました。家毎に、暁を迎えた人達から日廷上人の高徳は、益々称え慕われました。
寛永19(西暦1642)年、日廷上人は、身延山三門建立普請奉行として造立に当たり、晩年は人皇第百八代後水尾天皇に召され、京の都は妙覚寺(現在の日蓮宗本山・由緒寺院)の第二十五世貫首(住職)として晋山され、貞享元(西暦1684)年9月9日、御寿七十六歳で遷化(逝去)されました。爾来、「琥珀明珠大菩薩」の名号が贈られ今日に至っております。明治初年、常住坊は本行坊へ合併され、跡地に琥珀堂が建立されました。
法華経の功徳は深甚であり、琥珀様の霊験は灼かにして、琥珀様を一心に信奉する人の夢枕に立ち、多くの人々を琥珀堂へと導かれております。当琥珀堂におきましては、毎年3月22日に、例大祭が奉行されております。
山梨県中央市大田和にございます、大和山 蓮重寺です。
大黒天、吉祥天、七面天女、鬼子母神をお祀りしております。
日中不在のときがございますが、心置きなくご自由にお参りください。